ガシガレ

社内SEのヒトリゴトです。

非常停車ボタンを押した話

通勤中に非常停車ボタンを押した。

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7時台の地下鉄はほぼ満員状態。私は始発駅から悠々と座り、スマホアプリでTOEICのパート4対策をしていたところだった。パート4は長文のリスニング問題だ。ネイティブが英語をひとしきり喋った後にさらに英語で質問をまくしたてる。音は耳に入ってきてるけど脳に入ってこない。もうおうち帰りたい。おうちに帰ってかわいすぎる生き物と遊びたいよと思っていたそのとき、「どん」という鈍い音がした。無意識に音の方に視線を向けると、私の左前方の女性が倒れてしまったところだった。

(えぇー倒れちゃった…!?)
ついこの間も同じようなことがあったばかりだ。無理しないで休んでくれたらと思う反面、私も同じような経験がある。まだいける…と思っていてもそのときは突然やってきてしまうものなのだ。私の隣に座っていたOL風の女性が立ち上がり、倒れてしまった黒縁メガネの女性に声を掛ける。私はとりあえずイヤホンを外して座ったまま様子を伺っていた。黒縁メガネの女性は立ち上がることができない。OLさんが「大丈夫ですか?降ります?」と声をかけるものの、黒メガネさんの返事ははっきりしない。

そうこうするうちに電車は駅に到着。この時私は「当事者ではない、無関係だ」と思っていたのかもしれない。「変に手を出してもなぁ」とか「それほど重症ではないかも」「余計なお世話かも」という私を行動させないための思考が私の中をかけめぐっていくのを感じる。一瞬OLさんと目があった。OLさんは非常停車ボタンを押そうか躊躇しているように見えた。一方で私に押して欲しいようにも見えた。いやもしかしたら私が押したかっただけなのかもしれない。黒メガネさんは相変わらず立ち上がることができない。またいくつかの思考が私の中を駆け巡ったあと、覚悟を決めて緊急停車ボタンを思いっきり押した。

ピヨピヨピヨピヨ…アラーム音が鳴る。それほど大きな音ではないが静まりかえった電車内では十分にその音を聞き取ることができた。そして緊急停車ボタン付近にある小さなスピーカーが突然しゃべりはじめた。

「どうしましたか」

「体調の悪い方がいらっしゃって」

「ありがとうございます。すぐに向かいます」

その間OLが黒メガネさんを何とか起こし、OLさんが座っていた席、私の隣に座らせた。「ただ今○号車で緊急停車ボタンが押されました。確認をしておりますので少々お待ちください。お急ぎのところ申し訳ありません」という社内アナウンスが流れる。周囲の乗客は全員ノーリアクションだ。

電車は駅で停車中。私は自席の前で立ち、外の様子を見ているが中々駅員さんの姿が見えない。しかし一向に入ってくる気配がない。非常停車ボタンは何号車から鳴ったのかはわかるが、具体的な場所はわからないようだった。

この間せいぜい数十秒しか経っていないはずだが、やけに長く感じた。ようやく外の方に駅員らしき姿が見えたが、通り過ぎていってしまったので乗客を押しのけて外に出て「ここです!」と叫んだ。黒メガネさんはようやく少し落ち着いた様子で立ち上がることができ、駅員さんに肩を預けて外に出ていった。しきりに「すみません、すみません」と言っていたのが印象的だった。

 

結局、OLさんと私以外の周囲の人は誰一人手を貸すことは無かった。きっと「手を出すまでもない」とか、「それほど大ごとではない」と思っていたのだろう。もしくは聞こえてなかったのかもしれない。私も目の前で人が倒れていなかったら動いていなかったと思う。

私の行動は正しかったのだろうか。おそらく最後に立ち上がれた様子からすれば、黒メガネさんは少し休めば回復していただろう。OLさんか私の席を譲ってしばらく休んでもらえば、朝の忙しい通勤列車内の乗客の足止めをすることもなかったかもしれない。後から調べてみたところ、非常停車ボタンを押すことに否定的な考え方の人も大勢いることがわかった。

もしかしたら吐いてしまったり、意識を失ったり、もっと大変な事態になってしまっていたかもしれない。私は最終的に、押さないことより押して後悔することの方がダメージが少ないと判断した。それだけのことだったのだ。

そんなことを考えながら、私は誰とも顔を合わさずに電車内戻った。OLさんと会釈をすることもなかった。私が座っていた席はまだぽっかりと空いたままだった。私は何食わぬ顔でその空いたままの席に座り、イヤホンをつけてパート4のリスニングを続けた。イヤホンから聞こえる声は相変わらず何を言っているのか全然わからなかった。

 

(1864文字、82分)